キズトアイ

 

未曾有の危機に襲われることで露わになった人間の卑しさと、”いち私人”の個人的なスキャンダルという蜜に蟻の群がる名前なき群衆による言葉の攻撃が、同程度の話題性をもって世間を賑わせている。

 

ひとが形成する考えは、自分の中で自発的に形成しているように見せかけて、自分の属する社会が算出した全体主義的な世論に、無意識的に影響されている場合が多い。

 

「芸人Wは、なぜモデルSを裏切ったのか」

 

これに対し、算出された名もなき群衆の答えは

「非人道的なWは私たちが持たざる感覚をもった不良品で、社会から抹殺すべきだ」

である。

 

お気付きの通り、このやりとりはQ&Aになっていない。

 

多くのひとは、登場人物がなぜその行動をしたかを考えるときに、どうなって欲しいか、という潜在的な思惑に影響され、本来追及すべき他者の行動心理にまで考えが及ばない。

 

そもそも、社会がまるで芸人Wに興味があるようで、実際には自分に何ら関係もない”いち私人”の心のなかの本当の気持ちには興味がないことは当たり前なのである。自分が”常識人”であることを、自分の属するちっぽけな社会的集団に証明することに使える都合の良い道具にしか過ぎないのである。

 

 

 

 

「芸人Wは、なぜモデルSを裏切ったのか」

 

Wは芸人でありながらも、その芸風には、いわゆる”ヨゴレ芸”のような要素はなく、緻密に組み立てられたシナリオで人々の笑いを誘うスタイルだ。

 

また、自らが並々ならぬ努力して収集したグルメ情報を自らが持つセンスでプレゼンできる能力に気付き、笑い一切ナシで成立する芸をなりわいとするスタイルは、いわゆる意味でのお笑い芸人のやり方とは一線を博す。

 

芸人の割には(という言い方は失礼であるが)身なりも整っており、いわゆるイケメンで、芸人としてはイジりづらいような出たちからは、ある種、プライド高き潔癖症なのではないかと想像させる。

 

ところが、下世話な誌面が描いた”物語”の主人公の「公衆便所で行為に及ぶ汚らわしい人間」という設定がSNS上でなんども濃縮還元され、本来の果実の味とまったく解離して出来上がったイメージと、先に書いた洗練されてケチの付け所のない潔癖症のようなイメージとの乖離に、大衆は蟻の如く吸い寄せられてしまうのだ。

 

そもそも「潔癖症」というのは狭義の意味で「衛生的な状態に執着する」というイメージが付きがちだが、医学的な意味での「強迫性障害」は必ずしも「衛生的であること」のみに執着してしまう病気ではなく、「家を出る時は右足からでければいけない」や「テーブルの上の物は直角に並べられていなければ落ち着かない」、「大切なものはキズはおろか指紋ひとつつけない」等、他人には理解し難い自分の中の”マイルール”を徹底してしまう、という症状があるようである。そのなかに「汚れたら手を洗わなければいけない」という類型もあり、それが狭義の意味での潔癖症である。

 

 

 

話を戻すが、上記をもとにWについて考察してみる。

 

Wは先にも述べた通り整っており、Sとの交際宣言も、芸人とモデルという関係性の割には、名実ともに比較的好意的に社会に認められていたように思う。そして、社会からそのように写っていなければいけない、といことが、いつしか"マイルール"になっていたのではないだろうか。

 

自分のことを見ている大衆がどのような感情を抱くかを客観的に分析して「どのようなストーリーを描けば観客が笑うか」を緻密に設計して笑いを取ってきたWにとっては、想像に容易いことだ。

 

Wから見たSのイメージも、我々が描く表側のSのイメージと大差なかったのではないだろうか。なぜなら、大衆からの目線を分析してきたWにとって、見た目がいいと大衆から称賛されるSとの交際は表面的な意味で強く評価される要素に違いないと感じていたはずだからである。

 

このように書くと、WはSのことを本当は愛してなかったのではないか、と言及しているように見えるが、そうではない。

 

 

 

 

カードゲームが大好きな少年たちを想像してほしい。

 

カードゲームに用いられるカードには、一部、発行枚数が少なく、”プレミア”と称される希少性の高いカードがある。

 

コレクターはそのカードを幸運にも複数枚手に入れたとき、1枚は観賞用として専用のビニールのスリーブに入れて大事に保管し「一生キズをつけずに持っておくんだ」と誓うはずである。そして既に少し傷がついていてしまっているほうのカードは、その戦闘力を活かすために、キズがつくのも厭わず実践用のデッキに組み込むであろう。

 

あるいは、好きなアイドルの写真集を買うように、散財して複数冊を買い、「保管用」「観賞用」「”使用”用」と分けるはずだ。

 

男性から見た女性像のようなものを語るなかで、上記のようにモノで例えるような論調を用いることは、女性たちの眉をひそめるに違いないが、男性心理を分析するうえで、上記のような男性の根本的な性質をまるでなかったもののようにして夢物語的に考察することは、それも正確ではないようにも思う。

※無論、必ずしも男性が全員この考え方を持つわけではないことはいうまでもない。

 

 

 

そのようにして血の滲むような努力と、他者の持たない才能を駆使して勝ち取ったSというプレミアカードを、Wは「一生キズを付けず、終焉を共にしたいひと」として愛していたことは間違いないはずだ。そしてその”一番大切なもの”を汚さぬために大切にしまい、実践で使用したのは"一番ではない"カードだった。

 

この様子を見て、血の滲むような努力もせず、平凡な才能しか持たない多くの大衆は、Wの行為をサイコパスで破廉恥で人としてあるまじき行為であるとしてレッテルを貼り、まるで自分が常識人であることを高らかに示すように、集団で寄ってたかって作った大きな足でたった一人の人間を蟻のように踏み潰したくなるのは想像に容易い。

 

 

 

 

このように考察するも、失敗したのは群衆ではなく間違いなくWのほうだ。

 

当たり前のことだがSはカードでもプレミア紙切れでもなく、女性であり、人間だからだ。

いにしえの美しい土器のように美術館のショウケースに大切に温度管理されて保管されても、かつて暖かい竪穴式住居で人々に寵愛されて使われていた料理道具は、キズを付けながらも大切に使わなければ、その本来的な魅力は輝かない。

 

 

 

 

 

今回、人生史上一番キズ付けられ、失意のどん底に突き落とされたSは、それでもWのもとに寄り添うと表明したそうである。

 

キズを付けずに大切に保管しようとしたのに、結果として致命的で最悪で一生治らない醜いキズを、一番大切なひとにつけてしまった。

 

Wが本当の意味でSを愛したのは、初めてその手でキズをつけてしまった今なのではないだろうか。