趣味バンドにおける芸術・芸能

全日本剣道連盟居合道部門における、昇段審査において、審査員に対する金銭を渡す慣習があったことが問題となっている。

純粋に実力主義のスポーツと違い、剣道や茶道など“道”とつく類のものは、師匠との繋がりや家柄、経済力など、実力以外の要素も重要視されることが慣習である。

スポーツとは少しずれるが、宇宙の真理や哲学と密接に関係する“芸術”についても、ある種、スポーツに近い中立・孤高の精神がある。

一方で、私が今日気になった言葉は、芸術とよく似た語感を持つ“芸能”という言葉である。

遡ること室町時代、日本で初めて記された芸能論として知られる「風姿花伝」は、猿楽・能の演者である世阿弥によって記された。

直接、原書を読んだわけではないので本来の意図を汲み取れてない場合はご容赦いただきたいが、風姿花伝において“芸能”が“人を感動させる力”を“花”と呼んでいる。「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」という節が有名なようだ。

なぜ私が今日、この言葉が気になったかというと、私たちが日々時間や金を割いて勤しんでいる“音楽のライブ活動”について、この概念が活きるのではないか、と考えるからである。

音楽と聞くと、平たく言えばアート、つまりは芸術的な要素が強いと思われる。確かに、クラッシック音楽や、サイケデリックな音楽など、人間の精神や宇宙の原理を音で表したい場合は、芸術的アプローチが理にかなっている。

ところが、私たちが週末に小さなライブハウスで行なっている行為は、宇宙の真理を考える会ではない。より多くの友人や、友人の友人に、自分達が奏でる音で楽しんでもらうことが目的である。

ともすれば、技術の卓越や、自らの信じる楽器演奏論を重視して、芸術的なアプローチで臨むことは、より多くのお客さんに満足してもらうための術としては適切とはいえない。

ましてや、ステージ上で自分だけが気持ちよくなって演奏することはナンセンスである。

ところで、巷ではよく「ライブはウマいヘタが重要ではないよね~」という一般論を語るひとは大体ウマくないプレイヤーである。その現実から、所詮は鍛錬を怠ることへの言い訳を正当化する文句であると、その一般論を軽んじていた。

ところが、“芸術”および“芸能”の違いについて考えてみると、確かに、上手い下手に関わらず、お客の心を掴むことを何よりも重要視して考えている人は常に注目され、愛されている。このことこそが私たちアマチュアミュージシャンにとっての目的達成に近道なのではないか。

最初に述べた居合道昇段審査におけるワイロや、芸能雑誌を賑わせるスキャンダルなど、芸術的観点からみれば卑しい行為が、毎日巷では注目される。

プロの芸能界でなく、私たち素人のコミュニティーにおいても、ありもしない噂や陰口が、今日でも小さな世界を潤わせている現実は一見すると卑しいように見える。

ところが、趣味レベルで芸事の端くれである音楽に携わる者であれば、永劫・真理な美しい芸術的な音楽世界を望むことは、この世への失望へ繋がるリスクが高い。そうすると悟りを開いて涅槃寂静するしか道がなくなる。それかヒッピーになって毎日(以下省略

「散るゆゑによりて、咲く頃あればめづらしきなり」

花は散るもの。

日々様々なことを吸収して、移ろう四季の庭に常に色とりどりの花を咲かせておきたいと思う。