マシュマロ

 

 マシュマロ実験というものがあるらしい。詳しくはウィキペディア先生に聞いてほしい。

 

 子供達の好物であるマシュマロ。これをすぐに食べてしまったらそれっきり。15分我慢できたらもう一つあげる、というような実験をした場合、楽しみを我慢して最終的にゲットできるマシュマロの個数を最大化できる子供は、その後、社会的にも成功する傾向にある、ということを検証した実験らしい。

 

 社会において、集団で何らかの成果を達成しようとするシーンは多くある。例えば会社でいえば、お金を儲けることが成果(マシュマロ)である。営業活動は直接的にお金を稼ぐ活動である。しかし会社においては営業部だけでなく、稼いだお金を計算する経理部などの管理部門がある。営業さんがたくさんお金を稼いだところで、そのお金を無駄にしたり、効率よく運用できなかったり、不正に使ったりしているようでは、最後に手元に残るお金の量は、結果的に少ないということになるからだ。

 

 マシュマロを早速食べる子供と、そうでない子供がいるように、長い目で成果の最大化を目論むことができるひとと、そうでないひとがいるのは明白である。無論、社会における成果物はマシュマロなんかじゃないから、ガンガン稼ぐ営業が悪いわけでなく必要な存在であり、一方で管理するひとだけじゃ営業活動はできない。

 

 「民衆のミカタ(?)」というドラマの最終回だけを観た。地方公共団体単位における民意をもっと吸い上げていくべきだという篠原涼子は民衆に選挙への積極的な参加を促し、直接民主制を例にとってどんどん民意を吸い上げてゆく。

 

 一方で、国全体の利益を考えれば、勉強不足な国民の意見を重視しすぎるより、知識がある行政が公共の福祉の名の下、政策をリードするべき。国民は選挙にすら行かないくせに、すこしでも自分の身に損害が降りかかる政策がとられた時にだけ文句を言うから無能が大半。政治が汚いゲームであっても、それが最終的には国民の利益を最大化できるためならばいたしかたない。という論点がぶつかるようなラストシーンだったと思う。

 

 もちろんこれはどちらが正解か、などという野暮なディベートを繰り広げるための提示ではないのは明白だ。

 

 今日では、自分達の頭上を殺人ミサイルが通過したとしても、誰も行動を起こそうとは思わない。私もそうである。でも自宅の横にPAC3を建設しようとしてる政治家に投票するかといえば、自信がない。そしてミサイルが、自分の大切なひと達の命を奪った時、初めて後悔する。そして、声をあげる。なんで政治家は対策しといてくれなかったんだ。

 

 先日、知っている有名なギタリストが死んだ。生前における彼が語る様子や、演奏する様子はよく観ていて、そのひとが死んだことに対し今、悲しみを抱いている。しかし彼が死んでしまわないように私ができることは何一つなかった。では、もし身近なひとが死んだら。もしかしたら何かできることがあったのかもしれないと考えるであろう。そしてそれをしなかったらきっと後悔する。だけど、だからってきっと明日から急に私が大切なひと達に、やけに優しくなったりすることはない。ウェーイwwww死ねよーwwwwって言っていると思う。

 

 そこで、自分にできることを考えた。それは「考えること」である。そして、こうして残すことである。

 

 あなたはマシュマロをいつ食べますか?