キズトアイ

 

未曾有の危機に襲われることで露わになった人間の卑しさと、”いち私人”の個人的なスキャンダルという蜜に蟻の群がる名前なき群衆による言葉の攻撃が、同程度の話題性をもって世間を賑わせている。

 

ひとが形成する考えは、自分の中で自発的に形成しているように見せかけて、自分の属する社会が算出した全体主義的な世論に、無意識的に影響されている場合が多い。

 

「芸人Wは、なぜモデルSを裏切ったのか」

 

これに対し、算出された名もなき群衆の答えは

「非人道的なWは私たちが持たざる感覚をもった不良品で、社会から抹殺すべきだ」

である。

 

お気付きの通り、このやりとりはQ&Aになっていない。

 

多くのひとは、登場人物がなぜその行動をしたかを考えるときに、どうなって欲しいか、という潜在的な思惑に影響され、本来追及すべき他者の行動心理にまで考えが及ばない。

 

そもそも、社会がまるで芸人Wに興味があるようで、実際には自分に何ら関係もない”いち私人”の心のなかの本当の気持ちには興味がないことは当たり前なのである。自分が”常識人”であることを、自分の属するちっぽけな社会的集団に証明することに使える都合の良い道具にしか過ぎないのである。

 

 

 

 

「芸人Wは、なぜモデルSを裏切ったのか」

 

Wは芸人でありながらも、その芸風には、いわゆる”ヨゴレ芸”のような要素はなく、緻密に組み立てられたシナリオで人々の笑いを誘うスタイルだ。

 

また、自らが並々ならぬ努力して収集したグルメ情報を自らが持つセンスでプレゼンできる能力に気付き、笑い一切ナシで成立する芸をなりわいとするスタイルは、いわゆる意味でのお笑い芸人のやり方とは一線を博す。

 

芸人の割には(という言い方は失礼であるが)身なりも整っており、いわゆるイケメンで、芸人としてはイジりづらいような出たちからは、ある種、プライド高き潔癖症なのではないかと想像させる。

 

ところが、下世話な誌面が描いた”物語”の主人公の「公衆便所で行為に及ぶ汚らわしい人間」という設定がSNS上でなんども濃縮還元され、本来の果実の味とまったく解離して出来上がったイメージと、先に書いた洗練されてケチの付け所のない潔癖症のようなイメージとの乖離に、大衆は蟻の如く吸い寄せられてしまうのだ。

 

そもそも「潔癖症」というのは狭義の意味で「衛生的な状態に執着する」というイメージが付きがちだが、医学的な意味での「強迫性障害」は必ずしも「衛生的であること」のみに執着してしまう病気ではなく、「家を出る時は右足からでければいけない」や「テーブルの上の物は直角に並べられていなければ落ち着かない」、「大切なものはキズはおろか指紋ひとつつけない」等、他人には理解し難い自分の中の”マイルール”を徹底してしまう、という症状があるようである。そのなかに「汚れたら手を洗わなければいけない」という類型もあり、それが狭義の意味での潔癖症である。

 

 

 

話を戻すが、上記をもとにWについて考察してみる。

 

Wは先にも述べた通り整っており、Sとの交際宣言も、芸人とモデルという関係性の割には、名実ともに比較的好意的に社会に認められていたように思う。そして、社会からそのように写っていなければいけない、といことが、いつしか"マイルール"になっていたのではないだろうか。

 

自分のことを見ている大衆がどのような感情を抱くかを客観的に分析して「どのようなストーリーを描けば観客が笑うか」を緻密に設計して笑いを取ってきたWにとっては、想像に容易いことだ。

 

Wから見たSのイメージも、我々が描く表側のSのイメージと大差なかったのではないだろうか。なぜなら、大衆からの目線を分析してきたWにとって、見た目がいいと大衆から称賛されるSとの交際は表面的な意味で強く評価される要素に違いないと感じていたはずだからである。

 

このように書くと、WはSのことを本当は愛してなかったのではないか、と言及しているように見えるが、そうではない。

 

 

 

 

カードゲームが大好きな少年たちを想像してほしい。

 

カードゲームに用いられるカードには、一部、発行枚数が少なく、”プレミア”と称される希少性の高いカードがある。

 

コレクターはそのカードを幸運にも複数枚手に入れたとき、1枚は観賞用として専用のビニールのスリーブに入れて大事に保管し「一生キズをつけずに持っておくんだ」と誓うはずである。そして既に少し傷がついていてしまっているほうのカードは、その戦闘力を活かすために、キズがつくのも厭わず実践用のデッキに組み込むであろう。

 

あるいは、好きなアイドルの写真集を買うように、散財して複数冊を買い、「保管用」「観賞用」「”使用”用」と分けるはずだ。

 

男性から見た女性像のようなものを語るなかで、上記のようにモノで例えるような論調を用いることは、女性たちの眉をひそめるに違いないが、男性心理を分析するうえで、上記のような男性の根本的な性質をまるでなかったもののようにして夢物語的に考察することは、それも正確ではないようにも思う。

※無論、必ずしも男性が全員この考え方を持つわけではないことはいうまでもない。

 

 

 

そのようにして血の滲むような努力と、他者の持たない才能を駆使して勝ち取ったSというプレミアカードを、Wは「一生キズを付けず、終焉を共にしたいひと」として愛していたことは間違いないはずだ。そしてその”一番大切なもの”を汚さぬために大切にしまい、実践で使用したのは"一番ではない"カードだった。

 

この様子を見て、血の滲むような努力もせず、平凡な才能しか持たない多くの大衆は、Wの行為をサイコパスで破廉恥で人としてあるまじき行為であるとしてレッテルを貼り、まるで自分が常識人であることを高らかに示すように、集団で寄ってたかって作った大きな足でたった一人の人間を蟻のように踏み潰したくなるのは想像に容易い。

 

 

 

 

このように考察するも、失敗したのは群衆ではなく間違いなくWのほうだ。

 

当たり前のことだがSはカードでもプレミア紙切れでもなく、女性であり、人間だからだ。

いにしえの美しい土器のように美術館のショウケースに大切に温度管理されて保管されても、かつて暖かい竪穴式住居で人々に寵愛されて使われていた料理道具は、キズを付けながらも大切に使わなければ、その本来的な魅力は輝かない。

 

 

 

 

 

今回、人生史上一番キズ付けられ、失意のどん底に突き落とされたSは、それでもWのもとに寄り添うと表明したそうである。

 

キズを付けずに大切に保管しようとしたのに、結果として致命的で最悪で一生治らない醜いキズを、一番大切なひとにつけてしまった。

 

Wが本当の意味でSを愛したのは、初めてその手でキズをつけてしまった今なのではないだろうか。

家系ラーメン集◎反町「中島家」

久々の大当たりである。ぜひ紹介したい。

 

この日、私は神奈川区役所に用事があった。年度を跨ぐ前に不要になった原付の廃車手続きをするためである。

 

なぜ年度を跨ぐ前なのかといえば、次の年度の自動車税を払わなくて済むようにするためである。しかし結果的には、逆に急遽カネを払う羽目になってしまった。

 

横浜から世田谷に引っ越した際に、原付のナンバーを変更しておらず、住民票の住所だけを変更してしまったため、世田谷にいた期間の税金の請求が、原付の所有者である私に届かず、廃車手続きの際に滞納していた分を払うことになった。

 

無論、払っていなかった分を払ったわけだから、なにも損ではないのだが、来年分を払わなくて済むようにと工夫して意気揚々と区役所に行ったつもりが、結局財布からカネが出て行ったわけであるから、若干モヤっとした。

 

そんなわけで(?)、ここは横浜市。家系ラーメンでも食べて帰ろうということになる。

 

東横線反町駅。ここに「中島家」がある。

もともと相鉄線天王町に店を構えていたようだが、店舗の火災によりこちらに移転したそうだ。

 

ここは天王町にある頃から、「キャベツラーメン」や「レタスラーメン」等、野菜が乗ったラーメンに定評があることを事前調査で調べていた。

 

券売機でキャベツとレタスを右往左往。非常に悩ましい。家系モードの胃袋からすれば葉っぱなんぞ些細なもの。キャベツとレタスってどう違ったっけ?となるわけである。

 

キャベツラーメンは家系ラーメン店でもメニューに用意している店をよく見かける。しかしレタスは珍しい。ということでレタスラーメンをチョイスした。

 

窓の大きな店舗で、明るく光が入るカウンターで待つ私のもとに丼が運ばれてくる。

丼を覆うのは紛れもなく生のレタス。キャベツならばおそらく、しんなり火を通すであろうが、レタスはフレッシュなまま乗っかっている。

 

ここで家系ラーメン店での初体験をする。目の前に丼がやってくると、なにやら芳しい香りが・・・! なんとレタスに大量の胡麻油がかけられているのである! まるで有名焼肉チェーン看板メニューのやみつきキャベツ的な感じである。いい匂いだ。これは家系なのか?という芳しい香りである。

 

そしてスープを見る。アタリの予感である。あくまで好みの話であるが、私はスープに浮かぶアブラのキメが細かく、スープが白すぎず(=notセントラルキッチン系)、赤すぎず(=not武蔵家傾倒系)、美しい茶色。アブラとスープが分離せず、美しい液面が拡がっている家系ラーメンにハズレはないと思っている。がっつりしたアブラのパンチこそ少ないものの、丁寧に作り込まれたシルキーなスープは味に奥行きがある場合が多い。(妙蓮寺「ゑびす」、黄金町「千家」等) 中島家のスープはまさに美しい。

 

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丼を覆い尽くすフレッシュレタスから手を付ける。がっつり豚骨にフレッシュレタス・・・シャキシャキとしたレタスを食べると、まるでこの豚骨ラーメンはサラダなんじゃないかという危険な錯覚に陥る。これはかなり危ない。

 

前述の予想通り、スープは乱暴さがないものの、物足りなさも皆無、うまい。

 

チャーシューはブロック状に分厚いが、全くパサパサでなく、ハムのような、あるいはステーキのような、柔らかい肉のうまさを感じる。塩気は強いので、レタスが救世主。

 

麺は中太ながら縮れていない。スープの絡みは減るものの、洗練されたスープと、レタスの爽やかさとの組み合わせが、ストレート麺の上品さとマッチして、また丼の完成度を押し上げる。

 

うまい。

 

ひとつだけ気になることがあるとすれば、レタスにかかった胡麻油は当然スープに流れ込むので、その芳しい香りの効果で、スープ本来の味を味わう機会を失ってしまった。

 

次回はノーマルのラーメンをオーダーし、この完成度の高いスープの個性を追求したいと思う。

 

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家系ラーメン集◎川崎「美豚」

 

川崎駅周辺には思いのほか家系ラーメン店が存在する。しかも移転や、中抜きでブランドが変わったりと、布陣は流動的で、筆者はラインナップを詳しく把握していない。

 

今回訪れたのはラチッタデッラ側の路地にある「美豚」。

 

もとは「金也」という家系ラーメン店だったようであるが、この店に変わったのは今年に入ってかららしい。

 

店に入ると、8席程のカウンターに先客が一人。店員さんは居ない。家系ラーメン店には珍しく券売機がないので店員さんに申し付けるシステムだが、居なければそれができない。

 

困っていると奥の方から、女性の店員さんが出てくる。トイレにでも行っていたようである。

 

店内はキレイであるが、豚骨の匂いはなく、厨房の方にある寸胴は随分小さい。店内で豚骨を炊いていないような雰囲気であるが、確証はない。

 

祝日の昼下がりに一人で切り盛りしていて大変そうである。しばらくして運ばれてきた私の丼を伺うと、一瞬、普通の醤油ラーメンと見まごうようなサラサラとした液面が丼に広がっていた。

 

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事前調査の結果、「あっさり系の家系」というキーワードがあり飛び付いたわけだが、予想以上である。

 

さっそくスープをいただくと、家系特有の絡みつくような豚骨スープの粘度はなく、するすると喉を落ちていく。全く豚骨の雰囲気が感じられないわけではないが、かなり控えめで、家系を期待して行ってしまうと、物足りなさを感じるかもしれない。荒ぶる豚骨の存在が少ないせいか、いわゆるセントラルキッチンの出前スープなのかとやはり疑ってしまうが、壱角家のような白濁乳化スープのそれとは様子が異なり、これはこれで特徴的である。

 

麺の方も製麺所は不明だが、一般的な家系ラーメン店が用いてるような、小麦しっかりボディの中太縮れ麺よりは、幾分ツルツルしていて、中華そばに入っているような感じ。市販品の感じもする。しかしあっさりしたスープと相まって、ツルツルと上品なこの麺は、この一杯のあっさり感を助長する。

 

遅めの昼ごはんだったが、寝起き後一発目に胃に放り込むのも躊躇する必要がない、とても健康的な家系ラーメンとの出会いとなった。醤油感が控えめな分、出汁感がもう少しあると、個性が増えそう。

 

いずれにせよ、家系ビギナーに進めやすい一杯である。ご馳走様でした。

 

 

 

初めての二郎系「肉汁らーめん公」

初めての体験というのは、いくつになっても嬉しいもので、30の私は今日も初挑戦を試みた。

 

初挑戦といっても、たいそうなことはしていない。

皆さまの多くは普通に経験済みのことである。

 

「二郎系(インスパイアという?)」を初めて食べた。それだけである。

 

私自身、かれこれ10年くらいラーメン好きをやっているわけだが、“二郎”だけには食指が動かなかった。

 

様々な場所で「二郎系食べた!」という報告とともにアップされる写真の多くは、大量のもやしと、アブラの肉塊のようなチャーシューが丼を覆い隠し、食べ物というよりは餌という呼称が相応しく思えるような見た目に、ラーメンを食べたい時の欲望を満たしてくれる代物だと思えなかったからである。(が、結局おいしかった。)

 

事実、二郎を敬愛する方々の中には「二郎はラーメンではなく二郎という食べ物」というような表現をされる方もいらっしゃるようである。

 

私が二郎から遠ざかった理由は上記のような外見・量のハードルの高さの他に、店特有のルールがあるという噂がハードルとなっていた。が、満を持しての挑戦を試みた。

 

なんでもジロリアンの方々は「Mashi-mashi」なる呪文を唱えることで幸せになっているようであるが、私はビギナーなので、可能な限り食べきれそうなオーダーで門を叩くことにした。

 

京浜急行線、新馬場駅から天王洲の方へ歩くと交差点にある「肉汁らーめん公」。外にもメニューの写真があり入りづらいということはない。一般的なサイズに見えるラーメンの写真が飾られていたことが入店のきっかけである。

 

食券を買う際、サイズ毎の麺のグラムが書いてあり、120gと書かれた「らーめん普通」を頼むことにした。麺のグラムなんてピンと来ないと思ったが、つけ麺屋ではグラム表記をしている店が多い。つけ麺の中盛りだと230gくらいが相場だと思ったが、それを考慮すると120gは間違いなく少ないはずである。上に乗ってくる具材の量が分からなかったので、これにした。

 

食券を渡すと、やはり無骨そうな店員さんが「トッピングは?」と聞いてくる。家系ラーメン店でだったら通用する私お得意の呪文「カタメコイメ」は通用するはずもなく、店内のメニュー表を参照し、オーダーした。にんにくを入れて味濃いめにするようなオーダーである。野菜など、なにかを増すような注文はしなかった。

 

オーダー後、親父さんが鉄板焼きで使うような鉄の板の上でもやしを焼き始めた。

 

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アウェイ戦に緊張しながら待っていると丼が到着。

サイズを見て胸を撫で下ろす。良心的なサイズだ。

 

やはりもやしは多く乗っているが、日高屋の味噌ラーメンと同じくらいである。

にんにくは刻み。背脂が浮いたスープは透き通っていた。

 

スープを一口いただく。濃いめにしただけあって刺さるような塩気があるが、同時に奥の方から酸味が少々。出汁由来だろうか。

 

もやしの丘を崩しながら麺と一緒にいただく。もちもちとした麺は噛むほど不思議なくらい甘みを感じる。あまり下処理されてなさそうなもやしは野生的な味だが、噛むほどうまい。スープもがつんとしょっぱくて、刻みにんにくも効いているが、みりんなのか化調なのか、やけに甘い味があとをひく。

 

口コミを見る限り、チャーシューがパサパサしていると言われていたが、確かに脂身は少ないものの厚さのわりにはしっとりしており、ハムのような旨味を感じられた。1枚だけなので、ちょうどよかった。

 

店内には仕事終わりで作業服を着た男たちが続々と入ってくる。労働のあとの「Mashi-mashi」目当てであろう。

 

初めての二郎系に挑戦したわけだが、普通に頼めば普通に美味しいラーメンが出てくることを知ることができた。

 

もっぱら家系専科の私ではあるが、着実に寿命を持ってく代物であるには変わらない二郎系にもまた、命を削って味わうフリークが多く存在すること確かめることができたのである。

ぼっち系ブロガーの現代メディア考察

土曜の朝である。

ひと昔前の休日といえばギターを担いでスタジオに篭っていたように思うが、最近は事情によりバンドをほぼ組んでいない。それは決して忙しいからバンドをやらないのではなく、なにか急な予定が入ることを懸念してバンドをやっていないのであるから、必然的にこのような暇な休日がたくさん手に入るのである。

 

そのような余暇をどうすごしているかというと、もっぱら喫茶店に篭り、Youtubeをひたすら観まくる、という過ごし方をしている。

 

Youtubeを観るだけだなんて、よくそれで何時間も過ごせるね」と思われがちだが、今の私の人生の大半をこれに費やしているのではないかというくらいYoutubeを観ている。無料だしね。

 

最近、好きな“ユーチューバー”ができたので、オススメしたい・・・わけではないが、ここは私のブログなので、私の好みをただ書きなぐることに対して、なにも批判は発生しないはずである。

 

「スーツ」さんという、通称「鉄道系ぼっち系ユーチューバー」と言われているかたである。

 

彼は幼少期からの“鉄ヲタ”が高じて、今や毎日のように全国の列車に乗りまくり、その様子を淡々とレビューするという動画を配信している。

 

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また、鉄ヲタ向けのチャンネルだけでなく、旅が好きなひとに向けて鉄道知識を排除した旅のチャンネルも設けている。そして後述するが、彼が自分の持論を述べたり、逆に無意味で破天荒な行動(スーツを着たまま平然と風呂に入る等)をする動画を配信するチャンネルもあり、鉄道・旅・その他、というように3つ運営している。

 

彼は現在、横浜国大に在学中であり、卒業後も就職することなく、しばらくはYoutubeの広告収入などで仕事をしていくというような発言をしている。もっともこれは、流行りのユーチューブでたまたま儲かったからそれを継続するという短絡的な行動ではなく、経営学会計学を学び、また、Youtubeでの“仕事”を通じて得た知識などを活用してビジネスを行っていくというスタンスのものである。

 

動画をご覧いただければすぐに分かるが、“ヲタ特有”の喋り方で淡々と鉄道の知識を説明していく様子は、最初はギョッとしたが、慣れてくると心地よくなってくるのである。またその理路整然とした口調で最近では「国民と政治の関わり方」や「ハロウィンの渋谷での若者の行動に対する批判」等について持論を述べている。

 

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テレビではなくYoutubeだからこそ、「ヲタク的な喋り方」や「センシティブな内容への斬り込んだ話」が成立しており、それに共感できた途端、この動画を閲覧することは、ただ動画を観る時間に費やすことを意味するのではなく、自らの人生においても様々思いを巡らせる時間となるのである。

 

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テレビとYoutubeの比較は最近でも「メディアの在り方」というような視点で様々議論が交わされている。

 

どちらが優れているというにはまだ議論が醸成されていない段階だと思うが、少なくとも「若者のテレビ離れ」は現実として発生している。Youtubeは好きな時間に好きな映像を見れる、という形態の優位性があることはその要因のひとつであるが、内容が形成されていく過程の差異について考察することが、両者を比較するうえでより本質的であると考える。

 

キングコングの梶原氏は最近テレビで以前より見かけなくなった。もっぱらユーチューバーとして人気を博しているようである。

 

数ヶ月前、テレビ番組の“アメトーク”にて、梶原氏(カジサック)が「テレビでなくYoutube」への出演に重きを置いていることを、相方の西野氏が「テレビではなくクラウドファンディング」でのビジネスに重きを置いていることと重ねて、“意識高い系”のような一括りで、「テレビに重きを置いている」芸人さん達にイジられる、という様子がテレビで放映された。

 

上の文章、回りくどいうえに、色付けまでしている意図を読者の皆さまは汲んでいただけたであろうか。

 

Youtubeというのは御存知の通り、ひとりで動画を作成して、ひとりで好き勝手しゃべって、すぐに全世界に配信できる。先ほど紹介したスーツ氏も、今や会社という形態をとっているものの、基本的に彼の意見がそのまま100%動画に表れる形態で動画を作成している。

 

ところが、テレビ業界はどうだろうか。出演者、カメラマン、ADさん、プロデューサー、テレビ局・・・そしてテレビ局と繋がっているスポンサー、スポンサーと密接に利益を共有している国家機関と、多くのひとが関わっている。

 

そうすると当然、出演者が主張したい内容が100%放映されるかといえば、それはほぼ不可能であり、出演者以外の誰かによる潜在的なメッセージが裏に隠れていることも、また事実のようだ。

 

事実、私はテレビでの梶原氏の取り上げられ方を観て、「なんて破天荒で意識高い系を気取っていて梶原氏は調子に乗っている」と思ってしまったが、実際に彼の動画を観てみると、とても現代にマッチしているスタイルで、内容も面白いことが分かった。誰かが表現した一面的な意見だけで、自分の気持ちを決めつけてしまうのはよくないと、反省した。

 

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梶原氏の動画は少ししか観ていないのであるが、現段階で素晴らしいなと思った点を、備忘録として残しておこうと思う。

 

テレビにおいて、司会者と出演者という構図はあるものの、ひな壇に並ぶ芸人さんはその場で繰り広げられる瞬間をどんどん面白くするという目的で、自分の笑いの能力をぶつけているという構図がスタンダードであると思う。

 

梶原氏もかつてはそのスタイルでお笑いの世界で大成していった。(お笑いにはあまり詳しくなく、私はミーハーに千鳥が大好きである。)

 

ところがYoutubeでの彼はどうだろう。インパルスの堤下氏や極楽とんぼの山本氏など、“話題”のひとをゲストに呼び、話題のタブーネタをメインに喋らせるでもなく、普通にゲストの面白さを引き出している。

 

話題の彼らがテレビになかなか出演できない理由は先述の通り、テレビには様々な関係者がいて、その関係者の誰かにも迷惑を掛けられないという状況を鑑みると、リスクの高い出演者は必然的に出させない方向で動いて然るべきである。

 

ところがYoutubeは、そういったタブーがない。公序良俗に反しない限り、基本的に作成者が好きに作成できる。

 

動画のなかで梶原氏は、テレビの黄金期に活躍した堤下氏や山本氏が持つ芸人としての力量をいかんなく発揮できるよう、聞き手にまわり、かつての輝きを引き出していた。同時に梶原氏自身は、テレビで面白いことを話す能力でなく、Youtubeで聞き上手になる能力を活かし、新しいビジネスをしている。

 

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現代社会では生き方の多様化が進み、個人が新しい楽しみを見つけられる反面、同時に多様化による孤立という現代病を生み出している。

 

そんな中、私は“ブログ”などという古典的で拡散もしない媒体を使って自分の意見を述べている。こんな話を好き好んで聞いてくれるひとは稀であるということを、とっくに熟知しているからである。孤独という現代病である。

 

土曜の午前、頭の中をスッキリさせるための自己満文章作成にお付き合いいただき、最後に読者の方々に感謝を述べさせていただく。

家系ラーメン集◎青物横丁「まこと家」

京浜急行線、青物横丁駅は特急が停車する駅である。

 

ちなみに京急の列車種別は快特、特急、エアポート急行、普通、というように分かれているが、上から2番目の優等列車が停車する駅ということで、駅前には数多くの飲食店が存在するが、他の路線との乗り換えができるわけではなく、ターミナル駅ではない。

 

京浜急行線は国道15号線(いわゆる第一京浜)と並走しているが、この国道15号は毎年1月2、3日になると箱根駅伝が行われる、日本で有数の幹線道路であり、片側3車線を有する都心の大動脈である。

 

この国道15号線の道路沿いに煌々と輝く黄色の看板を掲げるのがここ「まこと家」である。

 

口コミを調べてみるとどうやら、まこと家の店主は「川崎家」で修行したようであり、この川崎家は「本牧家」の血統のようである。本牧家といえば、家系ラーメン総本山「吉村家」の直系店である。

 

家系ラーメンの楽しみといえば、ラーメンの味を楽しむ他に、そのお店がどのような歴史のもとで成り立ち、どのような味に進化したのかを考察することがあげられる。ここ「まこと家」の由緒正しき系譜を辿ることで、初訪問がひときわ楽しみになった。

 

大きな幹線道路沿いにも関わらず駐車場は用意されておらず、来店客は道路沿いに車を一旦停車させる必要がある。青物横丁という駅はそれほど人の多い駅ではないが、車でのアクセスもよく、ドライバーのオアシスとしての役割も果たしているようである。

 

ガラス戸をガラガラとスライドさせて入店すると、家系ラーメン定番である食券の券売機がないことに気づく。店内に掲げられるメニュー表を見て、カウンター内にいる店員さんに直接オーダーする仕組みだ。

 

値段を見ると、ラーメン700円。家系ラーメンの相場としてはやや高額の設定であるが、実はこのラーメン、家系ラーメンを定義づけるトッピングのひとつ、ほうれん草が乗っていない。このことを含めると、価格設定は強気と言っても過言ではないことが伺える。

 

横長のカウンター内で手際よく流れる作業を見ていると、私の丼が運ばれてきた。

 

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小さめのチャーシューの下には透明のアブラの層が広がっている。丼の底に溜まっているタレを攪拌するためにレンゲで混ぜてやると、芳しき茶色の濁りが湧き上がってくる。

 

ほどよく攪拌されたスープは濃い茶色を残しており、「魂心家」などに代表される近頃流行りの量産型乳化スープではないことが伺える。先ほど当店の血統を述べたが、改めてここ「まこと家」が直系のスピリットを受け継ぐ、タレのシャープな切れ味のラーメンであることがわかった。

 

スープをひと口いただくと、まず動物系の暴力的なアブラがボディーブローのように喉を越し、香りが鼻に抜ける。しかしこの豚骨のパワーを、タレの強烈な塩味が流し込んでくれるワイルドな一杯だ。

 

麺をいただく。酒井製麺所。「吉村家」を含む、直系リスペクトの多くの店が採用する中太麺だ。短めに切られた酒井製麺の麺には鶏油がまとっているが、この点がこの店の特徴に思えた。

 

鶏油が麺にまとわりつき、少しヌルヌルとした感じである。鶏油が添える香りも家系ラーメンの特徴のひとつであるが、私には少し過度であると感じたため、後日、再訪した際はオーダーを変えてみることにした。

 

「固め、濃い目、アブラ少なめ」

 

これが私の「まこと家」でのベストチョイスである。

 

家系ラーメンの楽しさはいくつもあるが、麺の硬さ、味の濃さ、アブラの量を変えられることも楽しみのひとつである。

 

今では都内にも多数存在する家系ラーメンであるが、どれも似たような醤油豚骨ラーメンと言えど、決まった家系ラーメンのルールの中で、店ごとに個性がある。オーダーを全て“普通”で頼むことで、その店の個性を知ることができるが、その店の味を自分好みにチューニングするための自己流のオーダーを探すこともまた、家系ラーメンの楽しみのひとつなのだ。

 

なお、まこと家では、ほうれん草の他に茎わかめもトッピングでき、それが旨いようであるが、これらのトッピングは200円。家系ラーメンに900円というのはいささか高級である感じがするが、ひとときのブルジョワ気分を味わいたい時は挑戦してみようと思う。

婚活アプリ 24歳 元保育士Mとの出会いの事例

 

 

先日は、まるで夏の前のような南風の匂いに街中が包まれ現実逃避をさせてくれたが、何を隠そう師走はクリスマス。独り身の人間には胸を突かれる装飾や音楽が街に溢れている。

 

かつて「出会い系」と呼ばれていた仕組みは、スマートフォンの発達により敷居が低くなり、「(婚活)アプリ」と呼び名を変えて、若い女性が口に出すことも憚られない程に市民権を得ている。


かくいう私も、背に腹はかえられぬということで今年これに初めて課金をしたのが、未だに結婚に結びつくような出会いはにはありつけていない。


ところがこのアプリの用途は、かつての様な“出会い”だけに限られず、様々な使い方がなされていることがわかった。


その一例は
「詐欺」である。


もともとこういった出会い系は、男が身体目的の下心で使ったり、前述のような詐欺の用途に供されていたことは周知の事実である。しかしスマホで気軽に出会える仕組みが確立され、悪用のハードルもかなり低くなってきた。


今回、日記に記したのは、私自身が身をもって体験したことを、面白かった体験として残したかったのが理由である。

 

 


12月初旬。クリスマスを控え、出会い市場はこれまでより活気に溢れている。
私もこの時期のピンチはチャンスだと前向きに捉えて、とにかく数を打ってみようと積極的にトライしている。


プロフィールなんて丁寧に読んだって、相手から気に入られる確率は1%以下である。そこで、最初に表示される写真をパッと見て、なるべく大人数になるイイねをしまくる、という戦略で挑んでいた。


「M(仮)、24歳。」

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彼女は即座にイイねを返してきた。


お互いの仕事の話など、一言二言のメッセージのやり取りで、即座に会う約束を向こうから提案してきた。


見た目が気に入っていたこともあり、拒否する理由もないので二つ返事をし、当然、男性である私からお店の提案を行いリードしていく。つもりだった。


女子ウケが良さそうな店を探していたところ、Mからメッセージが入る。


内容は12時にA珈琲店で落ち合う提案。よくある綺麗目なチェーン店だ。


メッセージのやり取りの段階から、私の素性もよく知らないのに積極的に会うことを提案してくるあたりで怪しさは感じていたが、異性との初めての待ち合わせなのに商談でも使いやすい珈琲店での待ち合わせの提案で、確信した。


これは99.9%、ネズミ講か宗教への勧誘だ。


しかし、0.1%の可能性と、プロフ写真が悪くない女の子とリーズナブルに話せる時間を手に入れられることは、ネズミ講に勧誘されるリスクを買ってでも、面白いと思い、この誘いに敢えてハマってみる素振りを見せて、会うことにした。


仮にいきなりホテル等、密閉された空間で会うならば、後から屈強な男たちが出てきて身包み剥がされるリスクがあったが、Mとの待ち合わせは喫茶店。相手は嘘じゃなければ24歳の女子。腕っ節の勝負ではなく、弁論の勝負のフィールドならば私が圧倒的に不利ということはない。リスクは低いと判断した。


程なくして、待ち合わせの時間。MはA珈琲店で先に席についていた。「会いやすいように」という口実で、会う前にLINEのIDを聞いてきたが、ここは上手くかわしておいた。これもMが黒であることを匂わす要素だった。


席に行くとMが居た。アプリの写真自体の詐欺も興味深い要素であったが、とびきり可愛い感じに撮れていたプロフの写真とは同じでないにしろ、本人であることはかろうじてわかった。かろうじて。


まずは少ないヒントから状況判断を試みた。Mの頼んでいた飲み物のグラスは待ち合わせ時間ちょうどにも関わらず、飲み干されて、溶けた氷の水が溜まっていた。また、飲みかけのお冷のグラスが2つあり、私が着座すると焦ったように、使用済みのお冷グラスのうち1つを店員に片付けさせた。私の前の“被害者の遺品”であろう。


アイスブレイクの会話が始まる。もう相手のグラスの氷は溶けているのに。


Mを黒だと確信した私は、相手のやり口を観察することが最大の目的にシフトした。


まず名前を聞いてくる。これは普通の子と会った時でもよくあることだが、Mはフルネームで聞いてきた。即座に用意していた偽名を使ったが、その後もそれとない雰囲気でこちらの様々な情報を聞き出そうとしていた。


次に仕事の話である。私が事務職であることを伝えると、Mは自分の職歴の話をし始めた。


保育の短大に通ったのち、3年間地方の保育園で働いていたが、もっと“効率的なお金の稼ぎ方”を知ったおかげで、今は定職につかず中目黒で暮らしている、といった内容だった。


Mが話す身の上話がどこまで真実かを知りたかった私は、色々質問した。幸いなことに保育士の仕事について他のひとより精通している私は、Mの話を聞いていく上で、保育士として働いていたことの真実味は大いにあることが判断できた。


Mは、私が自分のペースで“商談”ができない相手だと察したようで、話を現在の日本人の働き方についてにシフトさせた。


日本の労働時間が先進諸国に比べて長いことや、一生懸命働くことの無意味さなどである。一般的な保育士の子達からはなかなか聞くことのない社会に対する知識がある風のトークや、サラリーマンの無情さに漬け込むようなトークは、Mがこれまでの商談で身に付けてきたスキルなのであろう。


しかし、もっともらしく聞こえる社会のニュースに対する見識は浅はかであり、出会い系で連れたチョロい魚だと思っていたであろう私の有している知識にマウントを取れず、バツが悪そうにしていた。


話を聞いていくと、どうやら投資話の持ちかけがMの目的のようである。すっかり私がチョロくないことを悟ったMは、商談を深く進めることはやめたようだが、金をどこかに預けることでお金が増え、日本のサラリーマンのように仕事をたくさんしなくても稼げる、という誘い文句で数々の男性たちをカモにしてきたようである。


Mが上手く戦法を繰り出せなくなってきたので可哀想に思った私は、さも投資話に興味ありげに、楽してお金欲しい、とか、相手が次に繰り出すであろうパンチを出しやすいようにパスを出した。彼女も馬鹿ではない。私の目をしっかり見て、説得力があるような演出を試みている。だが、彼女のパンチは私の身体を透かし、目の前のテーブルにポロポロと落ちていくようだった。


ある程度Mの手口がわかったところで、こちらからも色々仕掛けてみる。どうして保育士を辞めたのか(どうして今のビジネスをしているのか)とか、両親がどう思っているのか、とか、同棲中の彼氏は何をしているのか、とか。(彼氏いるんかーい!笑)

 

 

 


さて、田舎で保育短大に入り、保育士として3年間勤め、上京してネズミ講をしている目の前のMは、見た目は普通のまあまあ可愛い女子だ。その話術や勉強する能力があれば、普通のいい男を捕まえ、普通に幸せな人生を送ることもできるだろう。この子は何を思い、何を叶えたくて、自分の力をそんなことに使っているのか。田舎から上京してきた女の子のストーリーをあれこれ妄想して楽しむことができた。


1時間の静かなるバトルを終えたところでMは長めのトイレ休憩をとった。友人に会うのでこれにて、と言った。Mは私の時と同様に、店を去らず次の魚への仕事に移るようである。


私は伝票を持ち、一人で会計に向かった。自分の飲み干した珈琲代を支払い、残りは席に残るMに支払わせるよう店員に申し付けた。思えば、私の珈琲代をMに押し付けることもできた。


しかし、若い女の子でありプロの詐欺師の端くれでもあるMとの1時間のバトルは、私のコミュニケーション方法のバリエーションを増やすためにも、今後もっと強い詐欺師と戦わなければならない時の練習のためにも有意義なものであり、珈琲代をなすりつけることはナンセンスに感じたので、それはしなかった。


今もMは、東京でひとり、頑張っている。